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特別な家

ホテル・ド・クリュニー

パリの中世の家屋建築としては最高の例である。ホテル・ド・クリュニーはガロ・ローマ時代のパリの中心に位置する(ローマ時代の浴場の遺跡が今でもホテルに隣接している)。クリュニー修道院長は1334年にこの場所を購入して共同住宅を建てたが、その後1485年に豪華な宿泊所を建てたのはジャック・ダンボワーズだった。滞在者の中にはルイ12世の未亡人であるメアリー・テューダーもいた。フランソワ1世は、メアリーが男児を産めばその子が王位を乗っ取る可能性があると考え、ここでメアリーを監視していた。果たして、メアリーが付き人のサフォーク公と恋仲であることが判明した。メアリーはただちに教会で結婚させられ、夫とともに船でイングランドに送られた。現在ではこの建物は美しい博物館で、タペストリーの収集品が有名である。

ホテル・ド・サリー

1634年、74歳にしてなお壮健なシュリー公が、自分のタウンハウスを拡張して、小さな庭の隅に建物を建てることにした。この建物は現在でもヴォージュ広場(とロワイヤル広場)のそばにある。現在にいたるまで、彼は広場のアーケードの下で昔の宝石を身につけながら跳ねまわっていたことが知られている。一方で、50歳も年下の妻は、次々に愛人を作っていた。

セヴィニエ夫人は友人とこのホテルのテラスから毒使いを眺め、「隣人」として知られたカトリーヌ・デエーを魔女として告発した。カトリーヌは連行され、1680年11月10日にグレーヴ広場で火あぶりの刑に処された。

また、パリの社交界ですでに人気者だった若き日のヴォルテールは、このホテルから出ようとしてシュヴァリエ・ド・ロアンの召使いたちに襲われた。ロアンは後にヴォルテールをバスティーユに投獄した。彼らはある女優のことで争っていた。ヴォルテールは後に釈放され、1200リーブルの年金を受け取ることになった。

ホテル・ド・サンス

セーヌ川畔にあるホテル・ド・サンスは、ホテル・ド・クリュニーとともに、パリで最後の中世建築(1475年)である。このホテルは、パリ大司祭をもしのぐ権勢を誇ったサンス大司祭のために建てられた。現在ではフォルネー美術図書館があり、軍事建築としても用いられていた施設の文学における輝きを伝えている。左側の小塔の壁には大砲の弾丸が打ち込まれたまま残っていて、1830年の暴動の痕跡を示している。*

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*簡単にいうと、強欲なマルゴー王妃が、美しいゴシック様式の門の前で、自分の若い愛人が嫉妬にかられた求婚者にのどを切り裂かれるのを見るはめになったのさ。じつに素敵なイメージだ。毎年この日とバレンタインデーには戻ってくるよ。

(DFP)