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コンコルド橋/革命橋

バスティーユ牢獄の占領とその後の破壊により、石がかなり安価で供給されるようになった。この古い要塞の石は、ブルボン宮殿と革命広場(およびギロチン)をつなぐ橋の建設に再利用された。この橋は1791年に完成して革命橋と名づけられ、後にコンコルド橋と呼ばれるようになった。

サン=ミシェル橋

この場所にあった最初の橋は、百年戦争の合間(1378年頃)に建設された。名前は近くのサン=ミシェル協会(パレ・ドゥ・ロワの敷地内)にちなんだもので、一帯の地域の名前もこれにちなむ。シテと左岸を結ぶ固定橋としては最初のものだった。当時の他の橋と同様、壊れやすく、洪水が起こると崩壊していた。革命期には32件の家があったが、取り壊されたのは1809年になってからだった。

シャンジュ橋

この橋の名前は、橋にそって金細工師と両替屋が並び、一体が金の街となったことにちなむ。多様な通貨が用いられるようになり、金貨が削られて本来の重さがない可能性が高くなった当時、両替屋は非常に重要な役割を果たしていた。

トゥールネル橋

1370年にはこの場所に木製の橋がかけられていたが、名前が「フゥスト・ド・リスル・ノートルダム・エ・サンベルナール橋」と長すぎてあまり人気がなかった。後にこの橋にかわりトゥールネル橋がかけられた。トゥールネル橋は洪水で流されてしまったため、1656年に石橋として再建された。トゥールネル(古塔)とは小さな要塞で、パリ市民の間ではガレー船の奴隷の「快適な」収容所としてよく知られていた。この措置は慈悲深いサン=ヴァンサン=ド=ポール修道士の発案によるものだった。また、一般からの寄付もこの奴隷たちを支えていた。しかし、1792年9月3日に、収監されていた63人の囚人が、マラーの痛烈な批判に興奮して暴徒と化した泥酔状態の愛国者により撲殺された。この愛国者たちは、囚人たちが危険な反革命分子であると信じていた。

ドゥブル橋

最初のドゥブル橋は1515年(フランソワ1世の時代)に建設され、病人をホテル・デューに運び込むための通路として用いられた。名前は、通行料が2ドゥニエ(double dernier)であったことにちなむ。この課金は非常に評判が悪く、1789年に廃止された。

ノートルダム橋

破壊と修復が何度も行われた(1400年代初頭には木の板で代用していた)が、パリの街ができたころからこの場所には何らかの形で橋があった。この端に沿って家が立てられていたが、そのため橋はかなり不安定になっていた。

プティ・ポン

この橋は、洪水や火災により何度も破損または崩壊しているにもかかわらず、2000年にわたり名前が変わっていない。この橋は、オルレアンやリヨンにつながるローマ時代の道への出口となるため、絶えず交通量が多い。また、左岸のモンターニュ・サント=ジュヌヴィエーヴの丘にある学校に通う生徒にとっては、必ず通る道でもあった。

ポンヌフ

名前は「新しい橋」だが、パリに現存する橋では最古のものである。建設が始まったのは1578年5月31日だが、お気に入りの愛人を2人も決闘でなくしていたアンリ3世にとっては悲しみの日でもあった。国王が葬儀の場から出てきた時には雨が降っていた。パリ市民は後にこの橋を「涙の橋」と読んだ。ポンヌフは当時としてはユニークな橋であった。まず、石でできた最初の橋であり、幅は最も広く、往来もしやすい。さらに、当時パリにあった他の橋とは異なり、橋に沿って家が立てられることはなかった。

マリー橋

マリー橋は設計者のクリストフ・マリーにちなんで名づけられた(聖母ではない)。彼はアンリ4世にサン・ルイ島に二重の木製の橋を架けるよう訴えた。アンリは暗殺されたが、この事業はそのまま継続された。橋は後に石橋になった。マリーは20年にわたり通行料を徴収し、それを元手に事業を完成させた。また、島の周囲に波止場を作り、道路を整備する事業も進めていた。北側の橋の建設は1614年に始まり、1630年に完成した。1658年には、橋の一部と、橋の上の家屋が洪水で壊れた。当時のパリではよく見られた災害である。革命の前後には、残っていた家屋も取り壊された。

ルージュ橋

ルージュ橋は木製の橋で、2つの小島を結んでいた。この橋は革命期にも破壊されず残ったが、その後破壊され、現在はサン・ルイ橋が架けられている。

ロワイヤル橋

ロワイヤル橋はパリで最も古い橋の1つで、最初の橋はフェリーの代わりとして1632年にかけられた有料の橋だった。色があかかったことから当時は一般に「ルージュ橋」と呼ばれていた(島を結んでいた小規模なルージュ橋とは別)。何世紀もの間に名前は何度か変わり、また洪水のため、一部または全体の修復も何度か行われている。

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