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グループ

ジャコバン・クラブ

憲法友の会(メンバーが集った修道院の名前からジャコバン・クラブとも)は革命期の大半において、フランスで最有力の政治クラブの一つであった。
全盛期には7000超の支部を有し、50万人近い会員が所属していたと推測される。初期のクラブはブルターニュの代議士の集まりに過ぎなかったが、一般市民や外国籍の者など、身分を問わず誰でも受け入れることで急速に勢力を拡大した。*

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*かなり限定的な集まりに聞こえるが後に急進派と評されたジャコバン・クラブだが、共和国成立前まで、少なくとも名目上は君主制を支持していた。だが1791年6月に、穏健主義寄りの代議士の多くが脱退して新しくフイヤン・クラブを立ち上げたことで急進化した。**
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**どんなクラブでも、何よりまず発音できる名前でなくてはと思っている。
フイヤンとか言いにくい
フイユにすればよかったのに
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王室が失墜した後、クラブの中でロベスピエールが台頭し、彼とパリの民衆の支持を得て、ジャコバン派が政府を事実上掌握した。*

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*民衆というのは時に、こうも説得力のある議論をするものだと気付かされる。
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ジャコバン派は恐怖政治に手を染め、国民公会や共和国の敵と見なされた者達に、幾度となく粛清を断行した。ジャコバン派は、ロベスピエールの過ぎたる横暴によって彼自身が逮捕され、反逆罪で処刑されるまでの約1年にわたり権勢を振るった。指導者を失ったジャコバン・クラブは、1794年11月に閉鎖、非合法化された。

ジロンド派

ジロンド派(別名ジロンダン、またブリッソ一派とも呼ばれる)は、革命期のフランスに存在した政治派閥。この一派は大概、ダントンやロベスピエール、マラーなどの山岳派に対立する一派として描かれている。

当時の政治派閥は近代以降の政党ほどに政治信条の相違が明白なものではなかったが、この二つの派閥については主要政策への意見を異にしていた。ジロンド派は対外戦争や、当時設立したばかりの合衆国式の連邦政府の樹立を支持した。一方の山岳派は戦争には反対で、政治はパリ主導で行われるべきだと考えていた。

当初はジロンド派が政治の中枢にあったが、数々の失策により支持を失い、山岳派の台頭を招いた。
既にこの時、ロベスピエールは政敵が陰謀を仕掛けているとの考えに取り憑かれていた。6月1日から2日にかけて、ジロンド派の面々には自宅監禁の処分が下され*、数週間後にその身柄は監獄へと移された。1793年10月、ジロンド派23名は反逆罪により処刑された。**

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*こう言えば聞こえはいい――だが実際は、アンリオが大砲を国民公会へと運び込み、議員がジロンド派を排除しなければ発砲すると脅したのが事実である。

**(皮肉モードON)さぞ公明正大な裁判を受けたことだろう、うん(皮肉モードOFF)
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スイス衛兵

スイス衛兵は、フランス国王とその居住地を守るために雇われたスイス傭兵の連隊である。

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*スイスはいい。自分の半分はスイス人だと思えてくる。スイスチーズが世界一だとの持論を展開してもいいが、おそらくその議論もきっと穴だらけだろう。
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スイスには良好で忠実、かつ協力な兵士を有する州が幾つもあるとしてその名を高めて以来、スイス人連隊は欧州で非常に需要が高かった。15世紀末にはスイス百人隊(「サン・スイス」)が創設され、定期的にパリへ駐屯するようになった。18世紀半ばには、10人程度の兵士で構成される一分隊にシャンゼリゼ通りの治安が委託され、秩序の維持と、法を犯した者を逮捕する任務が課せられた。革命期、スイス衛兵はテュイリー宮殿でルイ16世の防衛にあたっていたが、1792年8月10日、国民公会の開催場であり、後に国王の裁判が行われる馬術練習場に国王一家が避難した後、敗北を喫し、虐殺された。**

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**反省して、先のスイスチーズ/論議のジョークについて謝罪してもいいかな?ここのところ、ちょっと調子が悪くて。
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三部会議会

1789年3月、第三身分から代議士578名を選出する選挙が行われた。その中には、ロベスピエール、ムーニエ、バルナーヴにシェイエス、そして貴族でありながら第三身分の代議士の立場を選んだミラボー伯爵の姿があった。第三身分の代議士20代後半から30代前半の者が大半を占めていた。第三身分の代議士が着用していたシンプルな黒服は、後期なる者や聖職者のまとう色鮮やかな衣服とは全く対照的であった。*

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*それに、非常に痩せてもいた
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第三身分

第一身分を教会、第二身分を貴族とするのであれば、第三身分は「それ以外の全員」であったと言える。ここに属するのは物乞い、農民、中産階級、公証人、医師、法律系、職人、銀行家、そして学者――これらは当時、人口の約96%を占めていた。*

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*人口の96%が学者だったという意味ではないと思う。もしそうだったなら、洒落にならないほどふざけた時代だっただろう。2人とも、さぞ上手く馴染めたに違いない。
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「第三身分とは何か」(1789年発行)と題した小冊子の中で、シェイエスはこう記している:「第三身分とは何か?全てである。今日までの政治的体制の中で、何であったものか?無である。何を求めるのか?何かになることを。この身分なくして何かを成すことは叶わず、他の二身分がなければ、万事が上手くいくのだ。」

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