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地区

サン=マルセル

フォブール・サンタントワーヌと並んで、パリの南、左岸に位置するフォブール・サン=マルセルは、街のもう1つの主要な労働者階級居住地域だ。ここにはビエーヴル川が流れている。

この地区は製革所、毛布類や靴下類の生産、染色業、選択業などで有名だった。*

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*何が起こってもおかしくない、まともじゃない場所のように聞こえる。
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フランス最高のタペストリーの数々を生み出した、堂々たる姿の国立ゴブラン織工場はここにあった。

この地区を有名にしたのはジャン・ジャック・ルソーの描写だ。「私は非常に堂々とした外観の、大きいと同時に美しい街を、立派な街路、大理石や黄金の宮殿ばかりが目に入る都市を想像していた。フォブール・サン=マルソーにはいると、そこにあるのは汚く、臭い小路、黒ずんだ粗末な家、一面に漂うみずぼらしさと貧困の空気、貧食、荷馬車の御者、かけつぎ屋、煎じ茶や古い帽子を売る者だけだった。こうしたものから最初に強い印象を受けたので、それ以降にパリで実際の壮麗な姿をいくら見ても第一印象を拭い去るには充分ではなかった。それで私は常に首都に住むことに対して密かな嫌悪を感じていたのだった」**

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**ルソーは後にウェブサイト旅行レビュアーたちの守護聖人になった。
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ベルサイユ街

1623年にルイ13世がベルサイユ街に最初の狩猟の館を建てた時には、広大な森に囲まれたその土地で王はお気に入りの気晴らしにふけることができた。そこをフランスの中心に据えることにしたのは息子のルイ14世だ。1660年に王はフランス国家を統治する自身の野望にふさわしい城の建築を決めた。実際のところ、王がパリを後にしたのは、幼少時に起きたフロンドの乱で大剣した反乱を恐れてのことだった。簡単に言えば、もうパリの民衆の熱気にさらされるのが嫌だったのだ。1665年から1680年にかけて、約25000人、6000頭の馬が毎日忙しく働いた。1組は日中に、夜間にはたいまつの光のもと、別の組が労働にいそしんだ(教会はどうやら日曜の労働を黙認したようだ)。王はヨーロッパ諸国に自分の比類なき権力を見せつけるため、宮殿に壮麗さを求めた。自然を制御できるならば、世界に自分の法を押し付ける力があるというわけだ。ベルサイユは1つの見本だった。完璧でない点は一切許されなかった。*

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*屋根を架けるのは大変だよ。いいか、手助けをしてくれる6000頭の馬などいなかった。それに皆大工仕事が得意というわけでもない。
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宮殿に出入りする人々全員に便宜を図るため、ベルサイユ街も急速に発展していった。1682年には6000人だった人口が、1690年には10000人に達していた。彼らをベルサイユに引き留めるために、ルイ14世はベルサイユに建設されたすべての建物は、借金の担保に没収されることはないと決め、おかげで街は人を引きつけることになった。ルイ15世とルイ16世はどちらも城に非常に多くの改築をする一方で、街を国王の聖剣が権力をふるう拠点に変えた。1789年5月に三部会が開かれたのはムニュ・プレジールの間(文字通りに訳せばより少ない愉しみの部屋)で、もともとは王家の装飾品や仮装品の品の保管庫だった。

マレ地区

パリの中心に位置するマレ地区の最盛期17世紀、そこに住む貴族たちが流行最先端の地区へと変貌させた時期だった。18世紀になると、貴族たちはフォブール・サントノーレやフォブール・サン・ジェルマンのほうを好み、マレ地区は次第に忘れられていった。

貴族の移転にもかかわらず、マレ地区は常に貴族の地区というイメージを維持していた。それゆえに革命が起こると、暴徒たちはマレ地区に残る王家や貴族の多くのシンボルを取り壊しにかかった。*

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*暴徒にとってみれば、1ヶ所に何でも揃っていて実に便利だったね。コンビニみたいなもんか。
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革命と共にマレ地区は徐々に変化していった。使われていない邸宅は商人たちが受け継ぎ、倉庫や作業場に改装した。美しい家はこうして保存されたのだ。そうしてマレ地区には、店を営んだり、工芸品の商いをするような、今までより質素な人々が住むようになった。さらに19世紀には、それが小さな工場や準工業的な商売に取って代わられた。

奇跡の庭

奇跡の庭は革命時代のパリで最も貧しく最も危険なスラム地区だ。その名はお恵みをもらうためにひどい怪我や病気を装った多くの乞食が帰宅する時間になると奇跡的に「治癒した」ことに由来する。*

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*その名がいい手がかりになったと思っているんだろう。
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