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教会

サンジャックの塔

サンジャック=ラ=ブーシュの教会が破壊された際、この教会にあったフランボワイヤン様式塔(フランソワ1世の時代に建設)のうちの1つを保存することが決定された。これが現在サンジャックの塔と呼ばれているものである。本来は身廊の中にあって見ることができなかったため、基部には装飾がない。元の教会は、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路の開始地点だった。錬金術士のニコラ・フラメルは当初この教会の床下に埋葬された。保存された塔は科学の記念碑ともなっているが、これは数学者・発明家のブレーズ・パスカルが1648年にここで気圧に関する実験を行ったためである。

サント・シャペル

サント・シャペル(聖なる教会)は、ルイ9世(後に聖人とされ、聖王と呼ばれた)によって建設された。ここにはキリストのいばらの冠が安置されている。これは、彼がコンスタンティノープルのボードゥアン2世から購入したものである。*

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*いばらの冠を買ったのはルイ9世だ。
キリストが未来に飛んでボードゥアン2世からいばらの冠を買ったわけじゃない。
キリストは聖書の時代にもういばらを手に入れている。わざわざコンスタンティノープルに行ってボードゥアン2世なんてやつを探す必要はないんだ。

それから、ボードゥアン「2世」だと?ならボードゥアン1世はその名前でずっと苦しんで、同じ名前を自分の息子にもつけることにしたのか?

そんな人もいるよな

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この建物は変わっていて、使われている石が見えない。支柱の間の空間を全て窓が占めているからだ。さらに特徴的なのは、1246年から1248年までのたった2年間で建設されていることだ。
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**本当なんだ。ヨーロッパの建築家には詳しい。歴史上、2年間で建てられたものは他にない。小さな壁や、ミニチュアの水路でも。
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この建物は2つの階で構成されている。下の階はパリ市民と宮廷関係者、上の階は国王とその家族が使用した。

重要な行事では、国王は自分のみが鍵を持つ聖遺物箱から冠を取り出し、ひざまづく群衆に見せた。革命期には壊されそうになったこともあるが、結局は小麦粉倉庫、都市派のクラブ室を経て、最後は古紙回収店となった。こうして破壊をまぬがれ、人々の役に立った。

1837年までは「国有財産」と記された標識が掲げられていた。神聖な器や貴重な書物は失われて久しい。

サン・ジェルマン・デ・プレ

革命期より前、サン・ジェルマン・デ・ブレは貴族の別荘地として人気であり、この町の修道院はフランスで最も裕福な修道院の1つであった。ここに最初に教会が建てられたのは558年のことである。

革命期にこの修道院の用途は教会から貯蔵庫に代わり、食堂には1万5000トンもの火薬が保管されていた。当然といえば当然だが、1794年に爆発事故が起こり、旧修道院の一部が崩壊した。

しかし、結局は「修道院監獄」となり、1793年9月には最も残虐な虐殺が起こった。*

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*アブスターゴがデータベースを高速チェックする気を失くした時、僕たちの線形時間に対する感覚は吹っ飛んだに違いない。

サン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会/プラス・ド・オーム

双子の殉教者であるゲルウァシウスとプロタシウスにちなんで名づけられた。300年にわたりこの美しい教会は巨大な古いニレの木を見下ろしていた。中世には、この木の影で債権者が取り立てを行っていた。古代のバシリカの跡地に現在の教会が最初に建てられたのは1494年のことで、グレコローマン式の正面部が増築されたのは1616年のことである。ヴォルテールは熱心な信者ではなかったが、この教会が傑作であると絶賛した。この木は革命期に切り倒され(「自由の木」の方が好まれたため)、砲架として再利用された。教会は現在でも礼拝の場で、熱心な尼僧たちが活動を続けている。

サン・トゥスタッシュ教会

パリで2番目に大きな教会。レ・アールの中心に位置する。当初は古代ローマの殉教者である聖アグネスに掲げられた質素な教会だった。後に聖ウスタシュの遺物がこの教会にもたらされると、この聖人(シンボルは雄鹿とその上の十字架)にちなんで教会の名前が変えられた。レ・アールの中央市場の発展に伴い、教会区教会が手狭になってしまった。現在の教会は建設に105年かかった(1532年~1637年)。驚くべきことに、構造はゴシック式で細部はルネッサンス様式である。規模も言うまでもなく壮大だ。さらに、トレネ通り(ランブトー)が描く線にそって建てられているため、北に曲がっている。これは、店舗を誰も立ち退かせたがらなかったからだ。南端には塔がない。

ノートルダム大聖堂

ノートルダム大聖堂はパリで最も重要な史跡であり、歴史的にパリの中心とされてきた。ノートルダム大聖堂の前庭は、フランスの道路の距離測定の基準点となっている。建設作業は1163年から1250年にかけて約1世紀続いた。ノートルダム大聖堂はヨーロッパで初めて飛梁を使った建造物で、これにより聖歌隊席や身廊のまわりにより高く薄い壁を設置できるようになった。*

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*個人的には、聖歌隊席のそばに薄い壁は必要ないと思っている。閉じ込めて音が外に漏れないようにしてもらわないと。
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また、この飛梁のおかげで、大聖堂の有名なバラの窓を取り付けられるようになった。

革命期にはこの大聖堂は、食料の貯蔵庫や、理性の祭典(および後の最高存在の祭典)など、さまざまな用途で用いられた。貴重な宝物の多くは略奪され、1793年には暴徒が押し寄せ、聖書に登場するユダヤの歴代王の像をフランスの歴代王と間違えてその首を落としてしまった。**

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**ろくな教育を受けていない人間が理性を失うとこういうことになる。
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無傷ですんだのは10個の鐘だけだった。その傷跡は1845年になるまで修復されなかった。

フィーユ・ドゥ・カルヴェール修道院

この修道院の名残をとどめるものはないが、テュレンヌ通り沿いの繁華街の中心にあった。この修道院は1622年にジョセフ神父によって創立された。革命派は最後まで残っていた修道女を追い出して劇場にし、「ミューズの寝室」と名づけた。この劇場は有名なクリム(犯罪)大通りの横にあった。この名前は、この通りの劇場でメロドラマが多数上演されていたことによる。この劇場は1807年まで営業を続けていたが、帝国により閉鎖された。

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