(DFP)

一般の建物

アル・オー・ブレ

12世紀末、フィリップ尊厳王がレ・シャンポーと呼ばれる場所にさまざまな市場を設置した。これが後にレ・アール広場となった。
しかし、市場が拡大するにつれ、周囲の道路の混雑が進んだ。車両での穀物の運び出しはやりにくくなり、時間がかかるようになった。

パリ市は18世紀に、穀物の運搬と貯蔵を容易にするため、往来が簡単なアル・オー・ブレを建設することを決定した。用地は1755年に買収され、リング状の建物が建設された。当初は屋根がなかったが、1782年に穀物を雨などの自然現象から保護するために木製の屋根が設けられた。*

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*それほど時間ががかかるとは驚きだ。
「おい、穀物は全部そこの広い場所に置いとけ!」
「わかった!でも屋根を付ければさ、雨風とか、汚染とか、獣とか、泥棒なんかをふせげるんじゃないか?」
「大丈夫だよジミー、そんな物いらねぇよ」
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この建物は何回か火事に遭い、その後19世紀末に鉄製の屋根が取り付けられた。現在穀物は貯蔵されていないが、パリの商品取引所として使われている。

アンリ4世の像

馬の部分はフィレンツェで製造されて1614年にパリに送られ、「王」の到着を待つことになった。この像には21年もの間騎乗者の像がなく、パリ市民は「ブロンズの馬」としか呼ばなかったが、最終的には騎乗者であるアンリ4世の像も完成した。アンリ4世はプロテスタントの国王で、サン・バルテルミの虐殺を生き残って国王として即位した。治世の安定をはかるため、アンリ4世はカトリックに改宗したが、このとき「パリはミサを捧げるに値する」と言ったと伝えられている。アンリ4世は国民から絶大な支持を得ていたものの、1610年に馬車に乗っていたところを狂信的なカトリック信者のフランソワ・ラヴァイヤックに暗殺された。革命期には、アンリ4世の像がある場所は待ち合わせ場所として用いられ、さらにプロイセンとの戦争のための志願兵を募集する事務所としても使われた。

アンヴェリッド

アンリ4世とリシュリュー枢機卿はいずれも傷痛兵のための病院を設立しようとしたが、果たせなかった。類14世太陽王は、フランスの大修道院から徴税して財源を確保し、1671年11月30日に建設を始めた。5年後には6000名の兵士を収容する施設となっていた。1789年にパリ市民が大挙して押し寄せ、バスティーユ襲撃のために貯蔵庫の大砲やマスケット銃を強奪した。約50年後、皇帝ナポレオン・ボナパルトが大規模な金箔のドームの下に埋葬された。

現在ではアンヴァリッドは主に博物館として用いられているが、一方で老人ホームや医療施設としても用いられており、約100名の老人や傷病兵が生活している。*

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*もちろん最近入ってきた連中だ。1780年代からずっとそこで生きているやつが100人いるわけじゃない。もしそうだったら随分と腕のいい病院だ。
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エコール・ミリテール

かつてはウズラやウサギなどの繁殖地であったが、先代ルイ14世が創設したものにひけをとらない陸軍士官学校をルイ15世がこの地に建設しようと計画した。この計画の目的は、貧困層の過程(特に、戦争の被害を受けた過程)から500人の少年を集めて教育し、その中から上級士官を選抜することであった。この事業の監督と出資を主に行ったのはボバドゥール侯爵夫人であった。ルイ15世はボバドゥール侯爵夫人に「愛するお前がどうしてもと望むのでこの計画を承認した」と書き送っている。8年後、最初の授業が開講された。著名な生徒としては若き日のナポレオン・ボナパルトがあげられる。彼は「王の生徒」と呼ばれ、わずか15歳で、たった12ヶ月の在籍期間で少尉として卒業した。

カフェ・テアトル

カフェ・テアトルは1759年にサン=ルイ島で開店し、長年にわたりパリ最高級の喫茶店の1つだった。知識人、詩人、哲学者、俳優が集い、政治的な議論の中心でもあった。しかし、やがてカフェ・ブロコップのような喫茶店がカフェ・テアトルにかわり台頭してきた。1790年には、カフェ・テアトルは古臭い寂れた場所となっていて、そこで行われていたのは活発な議論ではなく二流の下品なコメディショーだった。革命期には活気を取り戻し、パリの各所に支店も開設した。こうして、第一次世界大戦の頃までパリの知識人が集う場所となった。

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*パリの教団の情報収集ネットワークの中心にもなっている。実にフランス的な概念で、何と言っていいかわからない。
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カフェ・プロコップ

カフェ・プロコップはシチリア人のフランチェスコ・プロコビオ・コルテリにより1686年に開かれ、後に18世紀を代表する喫茶店の1つとなった。パリにおける知の中心は左岸の喫茶店から右岸の喫茶店へと移った。プロコップは当時コメディー・フランセーズの向かいにあったが、劇作家、チェス選手、著名な俳優、作家、哲学者などの知識人が集い、活気にあふれていた。この頃のプロコップの愛好者として、ヴォルテール、ディドロ、ベン・フランクリン、ダントン、マラー、ロベスピエールらが挙げられる。

グラン・シャトレ

この牢獄には堂々たる四角形の高い塔がある。以前は要塞で、市の中心部にあるグレーヴ広場に建っている。この建物には不吉な評判がつきまとまっている。この建物もルイ6世肥満王の精力的な建設事業によるおので、グランポン橋(後のシャンジュ橋)を守ることが目的だった。かつては薄汚れていた地域の中心に建てられたこの建物は、実質的にパリを統治していたパリ憲兵司令官、副官、48人の顧問の本拠地として用いられていた。この中では裁判が迅速に行われていた。バスティーユ牢獄は動乱の数週間の間に破壊されてしまったが、グラン・シャトレは恐怖政治の時代にもそのまま用いられ、九月虐殺の犠牲となった囚人はここに収監されていた。最終的にこの監獄はナポレオンの手に落ち、取り壊された。*

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*これこそナポレオン・コンプレックスだ。
いつでも全てのものを自分のレベルまで引きずり降ろそうとしている。
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有名な囚人としてはフランソワ・ヴィヨン、クレマン・マロ、毒殺犯のアントワーヌ・フランソワ・デリューなどがあげられる。また、ファヴラ侯爵も1790年に絞首刑になる直前に収監されていた。この監獄から「モルグ」というフランス語が生まれた(15世紀には「顔」という意味であり、動詞としては「見つめる」という意味であった)。シャトレの看守は囚人を軽蔑の眼差しで見つめ、脱走した時にもすぐ判別できるように記憶していた。ここから、「モルグ」という単語は独房を意味するようになった。**

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**イギリスの公立学校の仕組みを思い出させる。無差別な暴力は多くなったが。
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コンシェルジュリー

この宮殿は10世紀から14世紀中頃にかけて、シャルル5世がルーブルに王宮を移すまでフランス王宮として用いられていた。15世紀初頭までは主に牢獄として用いられ、「コンシェルジュリー」(「コンシェルジュ」(衛兵)が語源)の名で呼ばれることになった。

革命発生時まではコンシェルジュリーがパリで最も重要な牢獄であった。多くの囚人にとっては、処刑前に最後に収監される牢獄であり、「ギロチン控えの間」と呼ばれていた。また「パリで最ももうかる家具付き宿」とも呼ばれていた。囚人は1ヶ月あたり27リーブルでベッドを借りられたが、ほんの数日で処刑されてしまうため、1台のベッドが1ヶ月の間に10回貸し出されることもあった。

シャンゼリゼ通り

この場所は、城壁の外に住んでいたパリ市民が、汚れた市内を避けて集まっていた場所である。この場所では、最も無害なものからあまり賞賛できないものまで、屋外で行われるあらゆる活動が行われていた。近接するモンテーニュ通りは、かつて「後家帰り」と呼ばれていたが、これは服喪中の女性が集まっていたためである。*

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*独身の方々が集まる所についても聞きたいな…
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シャンゼリゼ通りには専用の警察があり、その報告書は各時代の特徴を鮮やかに描き出している。また、ここは政治事件の舞台ともなった。ポール・バラスがロベスピエールを打倒するための陰謀を計画していたのは、アントワーヌ=ニコラ・ドワイヤンのホテルであった(現在でもルドワイヤンというレストランとして現存する**)

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**そこには行ったことがある。
「ルージュの照り焼き、テーブルビート汁添え」を頼んでみるといい。僕から聞いたと言ってみてくれ。ただし僕の名前は絶対だすなよ?
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彼はこう語っている。「政府の暴走を止め、実権を公民公会が取り戻せるようにするための方法を模索していた」夕方になると、陰謀の参加者はレモネード屋に集まった。

恐怖政治の期間中、この通りは身を隠すためブローニュの森に向かう経路として使われた。無秩序な群衆の中にまぎれてしまえば、目立たなくなるのだ。巡回する警官は10人程度しかいなかった。容疑者、脱獄犯、徴兵逃れ、浮浪者は森野中に身を隠していた***

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***夢に生きているのさ。

シャン・ド・マルス公園

この緑あふれる空間(「マルスの野」の意味)はギリシャの軍神にちなんで名付けられているが、これはフランス軍が演習場としてこの場所を使用していたことによる。この場所は木や水路に囲まれていて、一般にも開放されていた。また、パリの気球乗りの活動場所にもなった。パリでは人気のレジャースポットで、1790年以降は革命にとっても重要な場所となった。

1790年7月14日、激しい雨の中、約30万人の群衆がバスティーユ襲撃1周年を記念して建国記念日の式典に参加した。*

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*すばらしい!ぜひ行かなければ。
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1793年11月、パリの元市長であるジャン=シルヴァン・バイイは2時間にわたり水路の1つで暴徒の集団による拷問を受け、その後ギロチンで処刑された。「この処刑は償いとして行われた」**

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**そのくらいにしておこう
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1794年6月8日、シャン・ド・マルス公園で最高存在の祭典が行われた。この祭典はロベスピエールが立案・主催したもので、後にジャコバン派からはパロディとして揶揄された。また、ロベスピエールの没落を早めた一因ともなった。

平らにされ、さらい拡張されたことにより、140年後にギュスターヴ・エッフェルが巨大な建築物を建てられるようになった。そのため、シャン・ド・マルス公園は高級な結婚式、国のワークショップ、競馬の会場となり、さらに20世紀にはコンサートや花火の会場としても使われている。

ジャコバン・クラブ

サントノーレ市場はフランス史上最も有名な修道院である。ジャコバン修道院の路地に建てられている。この修道院は1806年に全て取り壊されている。この修道院はロベスピエールによる革命期の動乱の中心となった。重要な決定はすべて国民公会でなされたが、実権を握っていたのはジャコバン・クラブである。この名前は、クラブの会合場所がドミニコ会の教会であるジャコバン修道院であったことに由来する。この修道院には修道士がほとんどいなかった。この巨大な修道院は国民議会のすぐそば、現在のサントノーレ市場と同じ場所にあった。当初は豪華な図書館で会合が開かれていたが、その成功に伴い、「ジャコバン派」が教会を占拠するようになった。その結果円形議場が設けられ、1500人の愛国者がバルナーヴ、ランベスク、マラー、ロベスピエールからの演説を聞きに訪れた。まさに熱い言葉が飛びかう殿堂といえる。*

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*失礼を承知で言うが、フランスの「熱い言葉が飛びかう殿堂」、というとものすごくエロい言葉に聞こえる。
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ここでは週に3回会合が開かれていたが、その様子は画家のジャック=ルイ・ダヴィッドがじっくりと観察していた。彼は史上初の報道カメラマンといえるかもしれない。**

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**写真を撮ってたのか?何てやつだ
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この建物はテルミドール10日に公会の軍隊により閉鎖された。最初の市場は1810年に開かれ、「テルミドール9日」という名前だった。

ソルボンヌ

ソルボンヌは非常に有名だが、その創立者であり、ルイ9世(聖王)の宮廷司祭であり、さらに全ての人に対する教養を最初に提唱した人物であるロベール・ド・ソルボンのことは忘れられがちである。*

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*情けない話しだ。ヘイスティングスを歩き回っていて僕のことなどまるで考えていない誰かのようだ。
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ソルボンは神学博士を目指す一方、自分と同じく恵まれない環境の子どもたちの教育を推進しようと考えていた。聖王ルイはソルボンにクープ・グル通りの邸宅と付属の建物を与えた。ソルボンは後にこの地に学校を建設した。3世紀後、リシュリューは廃墟と化しつつあったこの「ソルボンヌ」を改築することにした。1629年、リシュリューは施設全体を建て替えたが、このとき自分の墓所となる場所を設けるよう指示し、その通りに彼はここに埋葬されることになった。その後ジラルドンによって建設されたリシュリューの墓は革命の期間中も無事に保護され、ルイ18世が正式に王位に復帰した後の1816年にソルボンヌ教会に再建された。リシュリュー枢機卿が改築したソルボンヌはその後19世紀末にかけて再建・拡張された。ルネッサンス期の学者であるラブレーが思想家の知能を食いつくす「ソルボナグル」という無視を考案して以来、ソルボンヌは嘲笑の的となってきた。

タンプル塔

エルサレムへの十字軍から帰還したテンプル騎士団により1240年に建設され、ヨーロッパにおけるテンプル騎士団の本部として用いられた。また、テンプル騎士団の慈善活動の拠点にもなった。国王フィリップ4世がテンプル騎士団と決別し、騎士団の総長ジャック・ド・モレーを処刑した後、この神殿は一時期マルタ騎士団が使用していたが、後に監獄として用いられるようになった。ルイ16世、マリー・アントワネット、ルイ=シャルル王太子など、フランス王家の人間の多くはここに収監された。*

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*まさにリアリティテレビの世界だ。野次馬の前には公開投票を用意して、警備員も配置しておくといい。ギロチンの刃が落ちる時に野次馬が「切れ!」と叫んでもいいだろう。
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1800年代初頭には、この監獄は王党派の逃げ場所になっていた。ナポレオンはこの神殿をアンシャン・レジームの象徴と見なし、使えないように破壊した。現在ではその名前はパリの地下鉄の駅と3区の商業施設にしか残っておらず、その名前は裏切り者の国王と裏切られた国王の実績を静かに伝えている。

テアトル通り

ジャン=バプティスト・ニコレーの劇場が国王に承知され、「王のすばらしいダンサーとジャンパーによるショー」と称されたことにより、パリ北部のタンプル大通りはつねに娯楽の場となった。この劇場にはあらゆる種類のエンターテインメントがそろい、喫茶店、仕出し屋、ワイン店もあった。劇場内でのショーだけでなく、劇場小面のバルコニーでは客引きのため「パラード」と呼ばれる小劇も演じられていた。18世紀末までにいくつもの劇場(1774年から1789年までの間に16件)が建てられ、エンターテインメントのネットワークが構成された。このため、つねに娯楽が提供されるようになった。アンシャン・レジームにおいては公に自己表現をすることが抑圧されていたが、革命期にはこの圧力から劇場を開放しようという動きが強まった。ロベスピエールは国民公会で、舞台芸術の教育的側面を高く評価した。1791年1月13日には、国民議会により国王の権限が廃止され、劇場は解放された。さらに、印税などの著書の権利は1789年8月4日に無効とされていたが、これも人権として認められることになった。

ドフィーヌ広場

1601年、アンリ4世は公共の広場を設置し、ユグノー戦争の間アンリに忠誠を尽くした初代高等法院長アシーユ・ド・アルレーに与えることを決定した。この広場は橋の人通りからは離れていたが、1608年にアルレーによって12の区画に分割された。家が建設され、職人、仕立屋、印刷屋、書店、近くのパレ・ド・ジャスティスの役人が賃借していた。

1633年まで、この広場の、あるいはその後できた住宅地の見どころの1つとして、パリの有名な道化師タバラン(アントワーヌ・ジラール)が挙げられる。彼は兄弟と営んでいる小さな劇団とともに、短いイタリア風のパフォーマンスを上演していた。彼のモットーは「世界はペテン師にだまされているだけだ」であった「タバランを演じる」(faire le tabarin)はことわざにもなった。*

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*実際には誰も使ったことはない
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ニューススタンドと印刷機

革命期の商業で最も特筆すべき点として、出版物の爆発的な増加による印刷産業の発展があげられる。1789年より前、雑誌などの文芸作品の出版は厳しい検閲を受けていた。しかし、革命により印刷産業は大きく発展した。1789年には、刊行されていた新聞は5紙だけだった。同じ年の12月には、これが130紙に増えていた。革命期の主要紙として、カミーユ・デムーランの「ヴュー・コルドリエ」、ジャック・ブリッソーのジロンド派新聞「パトリオット・フランス」、ジャック=レネ・エベールの「ペール・デュシェーヌ」、ジャン=ポール・マラーの「人民の友」などがあった。各紙は数多くのパリ市民の目にふれることになった。パリ市民には字が読めない者も多かったが、道路の真ん中で記事を大声で読み上げ街頭演説をする人が大勢いた。

バスティーユ牢獄

バスティーユ牢獄はシャルル5世による多数の建築事業の1つで、サンタントワーヌ門と、隣接するサン=ポル宮殿を守るためのものであった。後に、防衛目的の要塞としての必要性は薄れたため、牢獄として用いられることが多くなり、ルイ13世の時代にはほぼ牢獄専用となった。ここに収監されていた囚人の数は1年に40人を超えることがほとんどなかったが、その多くが政治犯であった。

1789年には、バスティーユ牢獄はすでに不要と見なされていて、たった9人の囚人のために250人の兵士を動員するなど費用がかさんでいた。*

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*費用を減らすいい方法を思いついた。兵士を247人クビにしてしまえばいい。飛行機に座席が1人分しかないのに機長が何百人もいるようなものだからな。うん、そうだ、これはいい考えだ。
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この頃、大小さまざまな監獄がパリに設置された。しかし、バスティーユ牢獄はそれでもアンシャン・レジームによる弾圧の象徴と見なされ、フランス革命の勃発時に最初に襲撃を受け破壊されたのもここだった。まさに文字通り「革命家の採石場」と化し、群衆が建物を破壊して破片の石を持ち去っていった。石の一部はコンコルド橋の材料に使われ、その他は記念品として収集されている。多くの石が要塞全体のミニチュアモデルとして加工され、土産物として売られた。

パリ天文台

この天文台は、詩人だけでなく学習もこよなく愛したルイ14世により建設された。計画はクロード・ペローの立案によるもので、方位磁石の針に影響が生じないよう鉄は使われていない。また、火災防止のため木材も使われていない。建設が始まったのは1667年の夏至の日であった。5年後、ジャン=ドミニク・カッシーニが南東側の八角形の塔にある145段の階段*をのぼった。

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*みんながいちいち数えているわけじゃない
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この天文台の地下室は地下27メートルの場所にあり、光学機器や計測機器が正常に作動するように常時一定の温度へ保たれている。この天文台の従業員は仕事場所にたどり着くために、330段の階段を降りなければならない。**

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**最初の電動エレベーターが実用化されたのが19世紀初頭だったのはただの偶然じゃない。その頃にはみんな疲れ果てていたに違いない
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地下室の奥には地下墓地がある。

この天文台の管理は、1971年までカッシーニ家で代々受け継がれてきた。その後ラランド、ル・ヴェリエ、アラゴなどに引き継がれた。

パリ市庁舎

1246年、ルイ9世は「商人頭」の地位を設けた。商人頭は「柱の家」と呼ばれる場所で権勢をふるっていたが、この場所は後にパリ市庁舎となった。この建物の正面には歴代のパリ市長銅像が並んでいる。これらの銅像はグレーヴ広場の方を向いていて、公開処刑を見つめてきた。内部は1871年の暴動による火災で消失した。後にこの建物の全体が復元された。この建物は、現在のパリ市庁舎の中心部として用いられている。

パレ・ロワイヤルのカフェ・フェブリエ

パレ・ロワイヤルには19件の喫茶店があるが、その中のカフェ・フェブリエはギャルリー・ド・ヴァロワ113にある。ここは2つの事件で有名である。まず、1792年9月21日にロベスピエールが共和国宣言を発表した。次に、1793年1月20日に、ミシェル・ルペルティエ・ド・サン=ファルジョーが暗殺された。

パンテオン

1744年に、国王ルイ15世は、自分が天然痘から回復したら廃墟となっているサント=ジュヌヴィエーヴ修道院のかわりに新しい教会を建設すると誓った。無事に回復したルイ15世は1755年にパンテオンの建設を開始し、1780年に完成させた。パンテオンはセーヌ川より60m高い位置に建っていて、パリの左岸では最も高い地点である。


パンテオンは本来教会として建設されていたが、年月がたつと所有者は教会から政府に変わった。1791年、ミラボーの遺体がここに安置された。それ以来、無宗教の墓地のような使われ方をするようにもなった。後に、ミラボーと国王との間でかわされた秘密の書簡が明らかになり、ミラボーの遺体は他の場所に移された。*


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*きっと相当怒ったことだろう。実際、もしまだ墓の中にいたならぐるぐる回り続けているはずだ
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現在では、ここにはヴォルテール・キュリー夫人、ヴィクトル・ユーゴーなど、フランスの偉人たちも葬られている。

フランス学士院

マザラン枢機卿はかつては一介の助祭であり、多くの罪を背負う身であったが、フランスの政治を18年にわたり取り仕切った結果多くの財産を得て、そのうち200万リーブルはこの大学の建設と、「4大地域」(ピエモンテ、アルザス、フランドル、アルトワ)から選ばれた60人の学生に対する年金にあてられた。この大学はパリで最高の史跡の1つである。ここにはフランス学士院があり、さらに27万5000冊の蔵書を誇るマザラン図書館がある。蔵書の中には処刑された人や亡命した人が所有していたものも多い。ルイ16世が所有していたものもあるが、ラベルには「ルイ・カペー」としか記載されていない。また、セーヌ川の眺めもすばらしい。この高所にある学びの場は、1793年に監獄になった。この頃はパリ全体が大きな監獄のようなものだった。初期の囚人の中には画家のジャック=ルイ・ダヴィッドもいたが、彼は浴室にいるマラー、苦痛を伴わない処刑方法を提唱したギロチン博士、国王の子供たちの家庭教師であったトゥルゼール夫人の肖像画を描いていた。教会はその後、わずかな特権階級のための砂糖店となった。

ホテル・デュー

パリ最古の病院で、起源は7世紀中頃にまでさかのぼる。本来は貧しい人や病人のための保護施設で、貴族が慈善活動として運営していた。革命期には、評判が非常に悪くなっていた。ここでの死亡者は院外より院内で病気にかかった人の方が多かったと考えられている。*

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*きっとそれが病院としての方針だったんだろう
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この病院は長年にわたり何度も改築されているが、現在でもパリの最初の9区の救急センターとして活用されている。**

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**きっとスリル満点だろうな
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ホテル・デ・ムニュ・プレジール

ルイ15世の命で、王室の式典や行事を行う組織のためにベルサイユに建てられたホテル・デ・ムニュ・プレジールだが、1789年三部会の会場として最もよく知られている。革命中は裁判所、兵舎、パンの配布所として利用された。歴史的な建物の多くは1800年になってある個人市民に売却された際に取り壊された。現在はベルサイユ・バロック音楽センターの活動拠点となっている。

メディシス塔

この塔は、ロレンツォ・イル・マニーフィコの子孫であるカトリーヌ・ド・メディシスが建設した王宮の最後の名残である。カトリーヌは未来予測に興味を持ち(ノストラダムスのパトロンでもあった)、天文学者のルッジェーリに、この塔の最上部にある鉄製の小部屋から空を観測することを許可した。

ラ・ビエーヴル

ビエーヴル川はフランス国内の他の小川と変わらないが、パリの中心でセーヌ川に合流しているため、経済的な重要性が流量を上回っている(流量も毎秒42立法メートルである)*

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*要するに「広くてやっかいな川」という意味だな
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この川の長さは32キロメートルで、幅は最も広いところで4メートルである。現在では地下水路となってしまい見えなくなっている。名前の由来は諸説ある。ケルト語のbeber(ビーバー)という説もあるが、この川の流れは弱いためビーバーが生息できるとは思われず、疑わしい。しかし、ビーバーは川の源流付近にあるビエーブルの紋章にも登場している。だが、beberには泥の色という意味もある。川の流域(下流の皮なめし工場により水が汚染されるまでの部分では)土壌が粘土質のため、川の水はまさにこの色になる。この他、ラテン語の動詞bibere(飲む)が語源であるという説もある。川岸に多数の居酒屋があったためである。居酒屋ジョークの類かもしれないが。**

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**考え過ぎなのは自分だろうか、それとも彼らか?

レ・アール

レ・アールは「都市内都市」で、「パリの胃袋」として知られる。パリ市民は毎朝ここで食料品を買っている。

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*下の階に太ったフランス人がいて、そいつのことも「パリの胃袋」と呼んでいる。
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市場となる前は「小さな野」(プティ・シャン)であり、その名残はプティ・シャンとクロワ・ド・プティ・シャンの2つの通りの名前として残っている。

この市場は1866年まで開かれていた。この年、ヴィクトール・バルタールが12年にわたる作業の末、ガラスと鉄筋による大規模な市場を完成させた。この市場は全ヨーロッパの模範となった。1970年代には取り壊され、現在はコンクリート製の建物が並んでいるが、最近その上に大きなガラス製の天藍が取り付けられた。

ヴァンドーム広場

ルイ14世はヴァンドーム・ホテルとキャプシーヌ修道院の一部を買収し、街を美しくして交通が便利になるよう図った。また、ローマ皇帝のように着飾った自分の像を建てた。ルイ14世はさらに、家の正面の裏側の土地を売却して利益を得た(買収時には国王が賃金を出していた)。主な資本家はこぞってこれを輸入した。購入者はパリの最上流階級の人たちだった。その後に続くのが、ヴィニーなど屋根裏部屋を借りていたもう少し謙虚な人たちだ。ローマ風に着飾ったルイ14世の像は1699年8月13日、ルイ14世のお誕生日に除幕された。1792年8月、この像は大砲を作るため取り壊された。*

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*大砲を作るために国王の像を取り壊すのはよくある話だ。アメリカでも独立戦争の際にニューヨークのジョージ3世像で同じことがあった。

ヴォージュ広場

この広場は当時はアンリ4世により「ロワイヤル広場」と名づけられた。アンリ4世はこの広場にある36件の小屋の設計も監督していた。アンリ4世はそれぞれの小屋について、完全な線対称にすること、4つのアーケードを設けること、2列の高い窓を作ることを命じた。この場所では何十年も前にアンリ2世が馬上槍試合で致命傷を負い付近の建物で死亡している。この広場はその場所を完全に覆い尽くしている。革命が勃発すると、「ロワイヤル」(王)の名前が不適切とされ、何度か名前が変わった。最終的には1792年に、ヴォージュから共和国を救うためにやってきた志願兵を記念して今の名前になった。*

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*共和国が何から救われたのかは歴史家も明らかにしてないようだから、次の中から選ぶといい。オーストリア人、火星人、ゾンビの群れ。

地下納骨堂

パリ左岸は厚い石灰石層の上に築かれている。街の大部分はこの石からできている。当初はこの石はしないで採掘されていたが、パリ市の拡大にともない、採掘済みの地域にも使われるようになった。中世の採掘方法は、石灰石層まで垂直に穴を堀り、その後鉱脈が尽きるまで水平方向に掘り進むものであった。その結果、地下に広大で複雑なトンネルの迷路が出来上がった。1774年以降、建物が崩壊する事件が相次ぎ、地下トンネルの存在を無視できなくなった。1782年、ティルー・ド・クローヌ警部補の式により事業の幕が開くことになった。*

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*つまり、この状況に対して何らかの対応をすることにした。劇をやるという意味じゃない。
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ティルーは240ヘクタールにおよぶ採掘場を^調査し、記録をとった。彼は古い縦坑を見て、別の切迫した問題の解決に活かせると考えた。聖イノサン墓地には何十万体もの遺骨があり、詰め込み過ぎたため近隣の建物のち家にあふれていた。**

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**今夜よく寝れるといいな
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ティルーの手により、600万体分の遺体が採石場に移され、高さ30メートルにわたり積み重ねられた箇所もあった。ここに埋葬された遺体の中には、ティルー自身の遺体や、1792年の九月虐殺の犠牲者1800名の遺体もある。後にこのトンネルは正式な墓地に作り変えられ、詩人ジャック・デリーユが「止まれ、死の帝国ここに眠る」という碑文を残している。遺骨は複雑な形で並べられた。また、博物館のような特別な部屋が用意され、パリのち家で見つかったさまざまな石や、埋葬された遺骨の中のさまざまな奇形骨格のサンプルが展示されている。この奇妙な景観が地下納骨堂の魅力となり、1800年代初頭から人気の観光地となっている。***

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***確かに。変人限定だけどね
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孤児院

詳細な記述で知られる編年史家セバスチャン・メルシエは、パリに何万人もの捨て子がいたことを記している。メルシエはこのような「家なき子」の多くが、教会の階段(最も著名な例は哲学者ダランベールである)や修道院の塔に置き去りにされていたことを記録している。このような子どもたちはシャリテ病院が収容し、なんらかの科料を資金源として保護することになっていたが、新しい施設が必要となっていた。ダリグル大法官(広場と市場に彼の名が残る)による資金援助を受け、1670年にマリー・テレーズ王妃がこの施設を開設した。この場所、現在トルソー広場となっている。その後、附属施設がノートルダムの前庭に建設されることになる。

徴税局の壁

民間徴税組織であり、人々に大いに嫌われた徴税局は、パリを壁で囲むことで街に入ってくる商品の課税に利用した。*

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*他の、市民に大人気の民間徴税組織とは対照的だな。あいつらほど痛快なやつらはいない!
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この壁には62ヶ所の検問用の門が昔ながらの様式で設けられ、その多くは今でも残っている。
徴税局の廃止は、国民議会の決議の中で最も評判が良いものの1つだった。

聖イノサン墓地

元々は、パリの墓地となっていたサン・ドニ(左岸の大部分を占めていたローマ時代の城塞部市の外側)に通ずる道路だった。

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*これから歴史上の人物の異名として自分が最も気に入っているものを教えてやるよ。
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「ルイ6世肥満王」はレ・アールの建設に続き、1130年に世イノサン墓地を建設した。この墓地はパリのすべての教会の墓地となり、きわめて多くの数の遺体を集められるように作られた。伝染病が起こればほんの数週間の間に何千もの遺体が集まることもあった。1400年代には改修がなされ、設計や費用負担の一部をニコラ・フラメルが担った。全体像は恐ろしい壁画として知られる「死の舞踏」に描かれている。革命の直前、遺体は発掘され、パリの地下墓地に移された。

革命広場/コンコルド広場/ルイ15世広場

パリの中心にあり、西にはシャンゼリゼ通り、東にはデュイリー庭園がある。ルイ15世広場が作られたのは1772年で、王が全能であることを知らしめることが目的だった。*

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*実にいやな仕事だ。
「王が全能であることを知らしめるものにしたい」
「なるほど。王がゼンノーね。ゼンノーっていうのは、やりたい放題って意味かい?」
「全然違う」
「そうだよな、全然違うよな。じゃあ、役に立たないってことかい?」
「違う。どうやら別の建築家に頼んだほうがよさそうだ」
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ここでは王太子(後のルイ16世)とマリー・アントワネットとの婚礼の際に自己がおこり、公式の記録によれば132人が花火の際に踏みつけられてしまったという。23年後、ルイ16世はこの広場で処刑された。この広場は現在、革命広場と呼ばれている。マリー・アントワネットも数カ月後に処刑された。革命広場にギロチンが設置されていたのは1793年5月19日から1794年6月13日までだった。この13ヶ月間で処刑された人はおよそ1500人にのぼる。

(DFP)